映画「瞳をとじて」2回目鑑賞 | ・・・の続き

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エヴァ・オーリンも、ペ・ドゥナも、まとめて好き。

ビクトルエリセ監督「瞳をとじて」

初日にみて、2回目鑑賞。

 

初回の途中から「必ずもう一回観にこよう」と決めてた。

平日午後、思っているよりも客席が埋まっている。

面白いのが女性たちが後部座席、男性陣が前方を選ぶんだな。

 

ここではネタバレも書く。

 

 

アナはアナのままなんだけど

 

 

「名前」に関するセリフが多い。

改名、

生まれてくる赤ちゃんの名付けについて(これも過去映画にもでる名前)、

名前はあってないようなものだ、

あだ名呼び(デカ足)

ミゲルでもマイケルでも呼び方には拘らない、

 

船の名前は陽光

そうあってほしい、からの命名

名前とは。

シェイクスピアの「名前に意味はない」を思う。

 

 

2回目確かめたかったこと

アナの登場が横顔

1回目もそうみたが、SNSでは「監督はアナを見せたくて」などの感想をみた。

そんな安易に考えてよいものだろうか。

自分の記憶では正面からの登場ではなかったはずだ。

横顔からのアナだったはず→確認

 

終盤の手ブレカメラ。

あそこでガタンと自分の視界が崩れる(そういう表現であろう)

 

気づき。

初見では、波、風、鳥、薪、雨の音がとてもよい意味で気になった。

真逆のモバイルフォンのケタタマシク聞こえる着信音、アラーム音が

かなり多い。

アナとプラド美術館カフェで話している時

背景の人物の着信音も鳴る。

敢えての、そこでの音の演出。ぼんやりぼやけた背景に

モバイル片手に立ち上がる人。それは無くても成り立つのではないかと考えるが

ビクトルエリセ監督ということでそこに意味を勘ぐりたくなる。もちろん不明。

 

その後、ミゲルのモバイルは何度も鳴る。海上でも鳴る。

スポンサーにvodafonの名があるからか、そんなものは関係ないか。

何かの意味を考えてしまいたくなる。何の意味もないかもしれない。

その勝手な思い込みと何かとこじつけたくなるこの不思議な時間が嫌いじゃない。

 

内容的には、ラストの奇蹟がそうだったのか、そうでもなかったのか

は、自分にはどっちでもいい。奇蹟が起こって欲しいとは思わないのだ。

でも「映画」館の座席では、そんな御伽噺が存在してもいい場所なのだ。

夢みたり、欺かれたりするために

電車に乗って出かけ、お金を支払い暗い劇場へ入るのだ。

この映画丸ごと「映画」なのだ。

 

初見のエンドロールを見ていた時、

「これは自分が死ぬ前に見る最期の映画であって欲しい」と思った。

この“丸ごと映画“が自分の映画鑑賞の完結ならば美しい。

その後「梟」もみたし、まだ見続けるけれども。